院長挨拶

院長 深井光浩

赤穂仁泉病院は、兵庫県西播磨地区から岡山県東部にかけての広い地域に密着した精神医療を展開し、2023年に創立60周年を迎えました。
近年では、グループホームや地域活動支援センターといった施設を整備。デイケア活動の活性化を図りながら、遠方の方や高齢で車の運転ができない方のために訪問看護の充実を目指しています。また最近は発達障害を中心とした若年の患者様も増えてきていることから、より専門性に特化した外来医療にも力を入れています。
特に当院では、入院から退院、そして社会復帰を目指したリハビリテーションまで一貫してサポートしています。
精神科医療は、単に症状が緩和されて退院されても、それで終わりではありません。その後、病気を再発させないこと、社会生活を送れるように支援することが重要です。
そのために退院後も訪問看護を行い、デイケアや公認心理師によるカウンセリング、就労訓練など、患者様のステージに合わせたサポートや支援プログラムを用意しています。
従来の医療の考え方を福祉的なアプローチまで広げて、患者様が世間で食べていけるよう応援する体制を作ることが大切なのです。
私たちは、地域社会から求められる病院として、患者様一人ひとりにじっくりと向き合った医療と支援を心がけています。
入院治療から退院へ、そしてリハビリテーションから就労を中心とした社会復帰へ。
福祉就労だけでなく一般就労のための訓練にも力を入れるため、2015年に就労支援センター「SORA」を創設しました。患者様のリカバリープロセスの充実はもちろん、就労の実績も着実に増えてきています。

また年々、外来患者様は増加しており、現在は月間2500件以上になりました。当院は統合失調症やうつ病の患者様はもとより、発達障害や認知症などさまざまな患者様を診ることができます。さらに2015年7月からは、治療抵抗性統合失調症の治療薬「クロザリル」を薬局に備え、岡山精神医療センターや大阪医科薬科大学、慈恵病院などでクロザリルを導入された患者様を迎え入れるようになりました。
今後も病院の豊富な医療資源と長年培ってきた精神科医療の専門性を生かし、医療法人でできる精神福祉も極めていきたいと思っております。
そして地域医療にも献身的に貢献できるよう、患者様一人ひとりに寄り添いながら、より質の高い治療、看護、福祉、就労支援を提供できるようスタッフー同邁進してまいります。

前理事長深井延浩を偲んで

去る令和3年2月20日、医療法人千水会赤穂仁泉病院の創始者であり理事長であった深井延浩が亡くなりました。享年92歳でした。彼が理事長在任中は多くの方に様々な関わりを持って頂きました。彼の後任者としてまた、息子として篤く御礼を申し上げます。

この場をお借りして深井延浩の事を少しご紹介させてください。

前理事長 深井延浩

深井延浩は昭和4年5月15日、岡山市備中高松の町医者深井昇平の次男として生まれました。その後父親と同じ医師の道を選びましたが父親の専門の内科ではなく、大阪医科大学(現大阪医科薬科大学)を卒業の後は岡山大学精神科に入局しました。なぜ当時は珍しい精神科の道を選んだか聞いたことがあります。「まあ、のんびりして楽そうじゃったからなあ」という返事には少し驚きましたが、いかにも彼らしいとも思いました。彼の性.格は一言でいうと、この返事のように穏やかでのんびりとしていて面倒くさがりで欲のない人です。その彼が何でまた精神科病院を開業しようとしたかは今もよく分からないのですが、いろいろ苦労のうえ昭和38年2月1日に赤穂線坂越駅裏の地に赤穂仁泉病院を開業しました。当時の坂越駅周辺は今でこそ住宅が増えていますが、田んぼばかりですごく寂しいところでした。開業して数ヶ月は入院患者もなく、赤字が続き一時は夜逃げを考えたそうですが、しばらくして徐々に患者も増え、66床で始めた病院も今は224床の中規模病院となっています。その後様々な方の推挙があって、赤穂市教育委員会委員長、赤穂市医師会長、兵庫県精神科病院協会の理事などの職務にも就きました。彼自身には元来無欲でその気がなくとも、頼まれるといやといえない、しかし一度引き受けると手を抜かない性格があり、それなりに気遣いや努力をしていたようです。それらを評価して頂き平成6年11月には藍綬褒章をいただきました。

開院当時5歳であった私も病院に育ててもらい、学校に行かせてもらい、医師にさせてもらいました。私自身多少の葛藤はありましたが、梢神科医の道を選び大学病院を辞め赤穂仁泉病院の仕事に本格的に関わり始めたのは平成2年からです。平成9年からは「もう、しんどくなったからお前やれ」と言われ私が院長職を引き継ぐことになりました。振り返ると平成の30年間、彼と仕事をやってきたことになります。彼の後任院長として助かったのは、彼が私に病院運営をほとんどすべて委ねてくれたことです。企業の創始者というのはその後継者のやり方が気に入らず、いろんな口出しがあるとも聞きますが、時折、聞いてくることはあってもいったん決定すると「まあ、好きにすりやあええ」と任せてくれました。当時は「面倒くさがりなので仕方ないなあ」と思っていましたが、いざこのように彼が亡くなった今は自分を信じてくれていたのだと実感しています。

彼の残した赤穂仁泉病院を継承し、今後もこの地域の精神医療の中核として頑張りたいと思いますので、皆様のご支援をよろしくお願いします。

深井光浩